2025
.04.04
教室と思われる場所で、女生徒が椅子に座り松葉杖を持っている様子が描かれている。彼女の足首には包帯が巻かれており、怪我をしているようだ。彼女の目線はまっすぐで表情は何かを考えているか、無関心な様子に見える。彼女の前には誰かの手が差し出されており、何らかの助けが求められているか、手助けが差し伸べられている場面と感じられる。モノクロの描写が物語に深みを与えている印象を受ける。
僕のしあわせは僕自身が「しあわせだ」と感じなかった時間にここ存在する。
間違いなく、この日記がなければ僕は 自分に都合の悪いことはすべて忘却し、 「あの頃はよかったなあ」と遠い目をするだけの大人に なっていただろう。
もしくは陰キャがどう、陽キャがどうと、ねちょねちょ どうでもいい定義にこだわる人間になっていたかもしれない。
そういう意味では、 くるくる変わる気分と憂鬱、 その反動のハイテンションと希望が 日毎に交錯する「30年前のありのままの自分」が みしみしと詰め込まれた日記は、人からもらった手紙とあわせて 僕の唯一の財産であり、資産である。
ツイートやブログのようなweb日記は 僕は絶対に日記とは認めない。
どれだけ「これは備忘録」「これは独り言」と 主張しても僕は認めない。 それは君自身ではない。
ある脳の障害によって、何十年経っても見たものを見たまま描ける特殊な能力は存在する。 それが羨ましいかと言われると、わからない。 見たものを見たまま描く行為に自我はあるんだろうか。
誰でも鮮明に覚えている光景がある。 鮮明に覚えているのに、絵で描くと下手すぎて誰にも伝わらなかったりする。 あれを不思議だと思ったことはない? 僕は子どもの頃からずっと不思議だった。
頭の中にあるものを形にするには技術を習得する努力が必要だ。 でも感動があり、記憶があり、そこからスタートすれば技術の習得は大した問題ではない。
技術は必ず劣化する。 思い出は劣化しない。 むしろ美化していく。
美化、つまり美しいものへと変わっていくなら、 それが一番描かなければいけないものだと思う。 僕は美しいものだけが好きだからだ。
高校の卒業式の後、どうしてもマキタと写真を撮りたいわたくしは雪の中をただ待っていた。
「そのせつはごめいわくありがとう。(2020)」のスピンオフ漫画
何年か前に「そのせつはごめいわくありがとう(2020)」という漫画を描いてから、毎年この卒業の季節には同じ内容の絵や漫画を描いています。去年描いたものを見直して手直ししてるわけでなく、ただ強烈に僕が覚えている思い出だからです。
ありふれた内容です。だから大事なのです。
【過去の「そのせつは」】
2021.2.242022.3.102023.3.292024.3.7
記念に「読みました」ボタンを押していってもらえると喜びます。
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