シリーズ:ヌード

ピカソ「人生」。

青の時代のピカソは絵を観るのが好きな中高生なら 必ず通過する作品群だ。

実物に接した回数は少ないけれど、 画集がすりきれるくらいには観た。

「人生の真理」「人間の真実」のような 生きるとは何かという問いが自然に浮かんでくる。

作品に対する小賢しい情報と知識が堆積し、 客観性なんていう退屈な武器を装備し始める季節になると自然に離れていく。 中学生が「人間失格」を読んで「これは自分のことだ」とのめりこむが、 高校生になって冷めるとバカにし始める。それと似ている。

僕はそういう態度がいつも気に食わない。 そうした大人的な冷笑への強い反抗心をもったまま 大した苦労もせずにここまで来てしまった。

でもそれを恥ずかしいこととは思っていない。


ただヌードを描くのも面白くないので せっかくだから昔心に残った美術作品を入れてみると、 これがまあ、楽しくって。全然関係ないけどね、裸と。

夜の12時に描き始める。 3時とか4時になる。このところ毎晩そんな感じで過ごしている。 日中、仕事がきつい。

でもそれよりも やりたいことをやらない方がずっときつい。

ムンク作。

ムンクもそうだけど、同じテーマ同じ構図の絵を 執拗に何枚も何枚も書いたりすることは珍しくない。

それもあって僕も同じような絵を何枚も何枚も 描くことには抵抗がない。

この絵の「接吻」は初期の素描だが、油彩・木版となるにつれて 男と女の境界線はなくなり溶け合って一つの物体になっていく。

それは甘美な光景だろうか。 ムンクの作品からは不安しか感じない。

愛とは決して満たされないということだとある詩人が言った。 二人で溶け合えば溶け合うほど 不安だけが自分の中に満ちてゆく。

小学校2、3年生になると 昆虫図鑑、恐竜図鑑、天体図鑑に飽きて 一人では箱から出せない重さの「西洋美術大全・全20巻」を眺めるようになった。

書庫にはやたらとそんな百科事典があったが 昭和3、40年代は百科事典を買うのがブームだったんだろうか。

僕がまず目にとめたのはドミニク・アングルの「泉」(1856)だった。 アングルはフランス新古典主義の最重要人物、「泉」はその最高傑作だ。

アングルの人物画にはいつも生気がない。 陶器で出来た人形のように冷たい。

もうしばらく経つと 僕は空き地の廃バスの中で 当時ビニ本と呼ばれた無修正のヌード写真集を拾うことになる。

そんな感じで僕の春はスタートしている。

パウル=クレー作。

クレーは美術史的にも独特の存在すぎて、 何を語っていいのやらわからない。 かわいくて好きという人もいれば、 その背後にある全く本人にしかわからない難解な理論が 好きな人もいる。

ピカソの青の時代やロートレック、ムンクは 僕の青春期の不安と共鳴して相乗効果で 僕を厭世気分のどん底に叩き込んだけれど、

それに疲れてくると段々抽象的な表現に惹かれるようになった。

いつか僕もこんなすっきりした、いい線が引けたらいいなと思いつつ 今はまだ、人体の形を描き起こすという基礎の基礎のそのまた基礎に必死になっている。

引用:ロートレック「洗濯女」

「洗濯女」ってご存知ですか。 文字通りお金をもらって洗濯する女性、及びそういう職業を指します。 16世紀くらいから主にヨーロッパで存在した職業です。

今でいうクリーニング屋さんか、というとちょっと違います。 洗濯女はお金持ちの下で低賃金重労働をせざるを得ない、 身分の低い女性のことです。娼婦や踊り子も近い存在でした。

僕の大好きな画家ロートレックは代々続く貴族の出身です。 代々続いたが故に、血が濃くなってあのような姿になったとも言われています。 (教科書的には落馬事故で足の発達が止まったとなっていますが)

そのせいで父親に疎まれ、劣等感の塊となった青年ロートレックは、 好んでこうした身分の低い女性の世界に共感し、入り浸ることになります。

その気持ちはなんだかひどくわかります。 僕はもちろん貴族ではありませんが、 大学生の頃は貧しい労働者こそ尊いという考え方でした。 不自由なく育ったブルジョアのエリート青年が 頭の中だけで革命と理想に取り憑かれるのと同じです。 不自由のない人間には不自由がないなりの劣等感があるのです。

それらの暗い情熱はやがて現実の中で矯正され、 社会の中で変節していきます。僕もそう。

だから変節できずにそのまま破滅していった芸術家の 作品が好きなのです。