古本屋で本を手に取り、部屋で読書するハセガワとオズ先輩

僕も京都の学生だったので、高野悦子「二十歳の原点」「原点序章」に登場する店、 「ろくよう」やシアンクレールの跡地には行ったりした。 今で言う、聖地巡礼なのだろうと思う。

それにしても二十歳の時って、 どうしてあんなにも虚しく、死にたく、つまらなかったのか。

友達がいても、彼女がいても、いい成績をとっても、絵を描いてもピアノを弾いても、 何も満たされない、あの虚しさは、 とどのつまり「自分は誰でもない、誰にもなっていない」という 不安に由来している。

残念ながらネットのおかげで、そんな後ろめたい背徳的な気持ちは、 たちまち自虐としてネタと化し、 人に読ませるためにTwitterで書きまくり、笑ってもらい、小さく満足し、 あるいは「見てもらっている」という妄想で簡単に自慰できる手段を得た。

でもあの真夜中、どうすることも出来ず、誰もいず、 不安で不安で何も手につかなかった夜、 あれは今にして見れば、人を大事にするために どうしても必要な通過儀礼だったのだと思う。

孤独であること、 未熟であること。

これは一人で一晩中悶々と噛みしめるところに価値がある。